2012年5月24日木曜日

「韓国のロケット技術は日本の1960年代のレベル」:半世紀の歴史的技術差

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朝鮮日報 記事入力 : 2012/05/24 13:10
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/05/24/2012052401319.html

ロシア頼みの宇宙開発、独自技術開発に遅れ

アジア通貨危機がピークを迎えていた1998年9月、国策シンクタンクの韓国航空宇宙研究院(大田市)に100億ウォン(現在のレートで約6億8000万円)の予算が突然下りた。
予算には
「2005年までに何としてでも宇宙用長距離ロケットを作れ」
という注文が付けられていた。

当時、航空宇宙研究院は、2010年までに宇宙ロケットを開発することを目標に掲げ、固体燃料を使用する小型科学ロケットを開発していた。
だが、韓国政府の指示はそれを5年も前倒しするよう求めるものだった。
その上、長距離ロケットは液体燃料を使用しなければならないが、当時は航空宇宙研究院を含め、液体燃料技術を研究している機関はなかった。

航空宇宙研究院はひとまず、01年までに上空200キロに到達する基本形液体燃料ロケット(KSR3)を開発した上で、それを改良し、05年ごろに50キログラム級の低軌道衛星を打ち上げるという戦略を立てた。
航空宇宙研究院と科学技術部(省に相当)は当時、ロケット技術を独自に開発する計画だった。

しかし、01年3月に韓国が国際条約のミサイル技術管理レジーム(MTCR)に加入したのを機に、ムードが一変した。
MTCRは軍事目的でのロケット技術の売買を規制する一方、平和的目的での取引を認めた。
ロケット先進国から技術を導入する道が開かれた形だ。

大統領までもが05年の宇宙ロケット打ち上げを宣言したため、大統領府(青瓦台)と科学技術部には「近道」が必要だった。
航空宇宙研究院で当時、上級研究部長を務めていたチェ・ヨンソク氏は「05年打ち上げというスケジュールに合わせるため、外国からでも速やかに技術を導入せよという上からの催促があった」と語った。
政治的な背景がロケット開発に大きく作用し始めたわけだ。

航空宇宙研究院と科学技術部は、液体燃料ロケットのエンジンを導入するため、米国、日本、フランス、ロシアに接触した。
このうち、韓国に技術移転してもよいとの意向を示したのはロシアだけだった。
当時ロシアは財政危機のさなかだった。外貨調達を望むロシアと、05年の打ち上げ成功という目標が迫る韓国の利害関係は一致した。

科学技術部は2001年5月、ロシアと技術協力に向けた覚書を交わし、交渉を開始した。
しかし、交渉は最初から難航した。
打ち上げ計画を急ぎたい韓国政府の事情を察知したロシアは巨額を要求し、時間を引き延ばした末、03年9月に宇宙企業のフルニチェフ社を協力企業として選んだ。
航空宇宙研究院は04年3月、当時の呉明(オ・ミョン)科学技術部長官に
「05年の打ち上げ計画は見直しが避けられない」
と報告した。
協力が本格化する前の時点で、打ち上げ目標時期は07年に延期された。

その上、当初技術移転を約束していたロシアが急に態度を変えた。
宇宙ロケットで最も重要な1段目ロケットのエンジンを含む主要技術に関しては移転できないと伝えてきたのだ。
ロケットを共同開発するのではなく、金を払って購入せよという意味だった。
ロシア政界は「韓国への技術流出が懸念される」として、韓国との技術保護協定の締結を要求し、07年に協定が結ばれた。
こうして韓国は宇宙ロケットの開発に着手できないまま、ロシアに5年も振り回された。

切羽詰まった航空宇宙研究院は、ロシアに代わり、1段目ロケットエンジンの技術を提供してくれる新たなパートナーを模索した。
ウクライナから30トン級のロケットエンジン技術を学んだものの、韓国にはその性能をテストする燃焼実験施設がなかった。
結局このエンジンは開発できないまま終わった。

ロシアは2009年になって、自国でも打ち上げ実験を終えていない1段目ロケットを韓国に提供した。
これを基に製作された「羅老(ナロ)号」は、2度の打ち上げがいずれも失敗に終わった。

韓国航空大の張泳根(チャン・ヨングン)教授(宇宙工学)は
「宇宙ロケットは国家安全保障に絡む技術であり、簡単に供与してくれる国はない。
むしろロシアとの契約を破棄し、韓国が独自開発を進めていたら、今ごろわれわれのロケット技術はかなり進んでいたはずだ」
と指摘した。
韓国は今でも1段目ロケットのエンジンをテストする総合燃焼試験場がない状況だ。

しかし、航空宇宙研究院で羅老号の開発責任者を務めた趙光来(チョ・グァンレ)羅老号発射推進団長は
「ロシアから学んだ技術が全くなかったという批判には同意できない。
独自開発していたならば、韓国のロケット技術は現在の水準にまでは到達していなかったはずだ」
と反論した。

■液体燃料ロケットと固体燃料ロケット

液体燃料ロケットは、固体燃料よりも推進力が大きいため、重い衛星や物体を宇宙に打ち上げるのに主に使われる。
短距離ロケットに使用される固体燃料ロケットは、打ち上げ準備期間が短く、大陸間弾道ミサイル(ICBM)など兵器用途に主に使われるが、最近は低軌道衛星の打ち上げにも使用される。


 韓国独特の「見栄晴主義がひどく裏目に出たというところのようである。、
 1960年代というと、今から50年前。
 日本と韓国のロケット技術力は半世紀の差があることになる。
 もはや圧倒的というより歴史的な差になっている。


朝鮮日報 記事入力 : 2012/05/24 12:58
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/05/24/2012052401309.html

「韓国のロケット開発は国家次元での失敗」
国の重要技術であるロケット分野、なぜ世界から取り残されたのか

日本の朝日新聞は今月17日、日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)の研究員の言葉として
韓国の衛星技術は優れているが、ロケット技術は日本の1960年代のレベル
と報じた。
これは韓国のアリラン3号衛星が日本のH2Aロケットによって宇宙に打ち上げられる前日の記事だ。

日本が人工衛星を打ち上げるためのロケット開発に乗り出したのは1960年代だ。
韓国は2009年と10年の2回にわたり羅老号を打ち上げたが、これはロシアから導入した1段ロケットと、国内で開発した2段ロケットを結合したものだった。
しかし結果はいずれも失敗に終わり、今に至るまで失敗の原因すら把握できていない。
宇宙開発分野の科学者の間では
「韓国のロケット打ち上げプロジェクトを見ると、独自開発と技術導入のいずれも失敗し、15年の期間を無駄にしてしまった」
といった反省の声が出ている。

宇宙ロケットは10万個以上の部品によって作られる最先端技術の集約体だ。
国の安全を守る監視衛星はもちろん、将来の宇宙開発も自国のロケットがあって初めて可能になる。
自動車のエアバッグにロケットの固体燃料点火技術が使われていることからも分かるように、宇宙ロケット開発に伴う経済的、商業的波及効果も絶大だ。

韓国は1998年から宇宙ロケット開発に本格的に乗り出した。
最初は小型の観測用ロケットを独自で製造し、これを複数セットにして国産ロケットを打ち上げる方向で開発が進められた。
しかしこの研究は計画通り進まなかったため、2002年以降はロシアの技術を導入し、短期間で成果を出す方向へと方針を転換した。

しかし、結果的にはこれが失敗の原因となった。
ロシアは当初の約束を破り、2006年の時点で
「ロケット技術は移転せず、1段ロケットをロシア側で製造して引き渡す」
と通知してきた。
韓国政府はロシアの要求を飲まざるを得ず、ロケット打ち上げの日程も何度か先送りされた。
漢陽大学機械工学科の趙辰洙(チョ・ジンス)教授は
「06年の時点でロシアからの技術導入を諦め、独自開発へと方針を変えていれば、今ごろは1段ロケットを製造してテストをしていたはずだ。
自国でロケットを製造すれば、たとえ失敗に終わっても、その原因を究明し改善することができる」
と述べた。

韓国航空大学宇宙工学科の張泳根(チャン・ヨングン)教授は
「今からでも方向を見直し、最初から確実に独自の技術を発展させなければならない」
と指摘した。


つまり、まだロケットを自力で打ち上げられないから「1960年代」ということのようである。
ということは、まだしばらくは韓国の「ロケット1960年代」は続きそうである。
北朝鮮から技術供与を受ければ、迅速に開発できるかもしれないが、ちょっとそれはやりにくいだろう。
見栄晴主義から北朝鮮には頭を下げたくないだろうから。



朝鮮日報 記事入力 : 2012/05/24 13:05
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/05/24/2012052401315.html

韓国のロケット技術は日本の1960年代レベル
日本の技術者が語る
日本は70年に初めて人工衛星打ち上げに成功

韓国のアリラン3号衛星が日本のH2Aロケットによって打ち上げられる前日の17日、日本のメディア各社は宇宙航空研究開発機構(JAXA)関係者の言葉として
「韓国のロケット技術は日本の1960年代当時のレベル」
と報じた。
独自開発か他国の技術導入かで方針が定まらなかったことが影響し、韓国のロケット技術は今なお日本の1960年代のレベルにとどまっていることを指摘したわけだ。
日本は18日、韓国のアリラン3号衛星を積んだロケットの打ち上げに成功することで「日本のロケットは国内限定」というこれまでの見方を脱却し、世界の衛星打ち上げ市場へと本格的に参入することになった。

日本はロケット技術の独自開発を進める一方で、海外の優れた技術も積極的に導入し、今では宇宙ロケット先進国の仲間入りを果たした。
日本のロケット開発は1955年4月、東京大学の糸川英夫教授が長さ30センチのペンシル型固体燃料ロケットの水平発射に成功したことから本格的に始まった。
糸川教授は1960年代後半まで、日本のロケット開発で中心的な役割を果たした。
その後、日本は4回の失敗を経て、1970年にL4S型5号機で人工衛星「おおすみ」を衛星軌道に乗せることに初めて成功した。
この成功により日本は、自国の技術により衛星打上げに成功した世界で4番目の国となった。
日本が2003年に打ち上げた小惑星探査衛星「イトカワ」は「日本のロケット開発の父」といわれる糸川教授の業績をたたえてその名がつけられた。

日本がロケット開発を進めるに当たり、もう一つ力を入れたのは、米国から導入した液体燃料ロケット技術だ。
1967年に当時の佐藤栄作首相とジョンソン大統領は宇宙開発分野での協力に合意した。
これを受けて日本は米国のデルタロケットの技術を導入し、これを基盤として3段型のNシリーズロケットを開発した。
三菱重工業で宇宙事業を担当する浅田正一郎副社長は、今年初めに韓国を訪れた際
「開発当時、米国はアポロ11号による月面着陸に成功したばかりだったため、日本に技術を移転しても問題ないと判断したようだ。
設計図面や関連するソフトウエアなどの移転はもちろん、米国の技術者が日本に来て指導までしてくれた」
と当時の模様について語った。

日本はNロケットの技術を基盤に液体燃料ロケットの国産化を進め、1994年にH2ロケットを開発した。
京都大学の中野不二男特任教授は、最近韓国で開催されたセミナーで
「H2ロケットは液体燃料を主に使用するが、固体燃料も補助装置として活用している。
日本は双方の強みを生かして国産化に成功した」
と述べた。




朝鮮日報 記事入力 : 2012/05/24 12:59
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/05/24/2012052401310.html

技術移転なかった羅老号、国会も状況を把握せず
航空宇宙研究院、ロシアとの契約書公表せず
国会はもちろん管轄の教育科学技術部局長も閲覧不可

羅老号の開発が進められるに当たり、韓国とロシアは政府間の協定・協約を3回締結した。
交渉の中でロシアが締結を求めた韓ロ宇宙技術保護協定は、後に韓国の国会も批准した。
しかし批准に同意した国会議員でさえも、契約内容について詳しく知ることはできなかった。
この契約を実際に締結したのは韓国航空宇宙研究院(以下、航宇研)だ。

当時、国会科学技術情報通信委員会(科技情通委)の委員だった与党セヌリ党の徐相箕(ソ・サンギ)議員は「“ロシアとの契約内容には疑問が残る”といった指摘が根強かったため、議員の間から契約書の公表を要求する声が出始めた。
実際に契約を締結したのは航宇研とロシアのフルニチェフ社だ。
「あの時点では誰もが技術移転と考えており、単に2億ドル(現在のレートで約160億円)を支払ってロケットを購入するだけとは思いもよらなかった」
などと述べた。

メディアや政治家などから契約書の公表を求める声が相次いでいることについて、航宇研と政府は
「ロシアと約束した守秘義務に違反すれば大きな不利益となるため、国益の観点から公表は難しい」
として今なお公表には応じておらず、契約内容を知っているのは教育科学技術部(省に相当)の呉明(オ・ミョン)元長官兼副首相、航宇研の幹部、科学技術部の一部官僚などごく一部だ。
科技情通委に所属していたある議員は当時の雰囲気について
「一部議員の間からは、“航宇研のような研究所が協定を締結すること自体がおかしい”との声も出ていた」
と述べた。

このような秘密主義は現政権になっても続いた。
航宇研を管轄する教育科学技術部のある局長クラスの幹部が「契約書を見せてほしい」と要求した際も、航宇研は「機密事項だ」として拒否した。
この幹部は
「航宇研を管轄する政府部処(省庁)の局長でさえ閲覧できない契約書などあり得ない」
として、あぜんとしたという。

2009年に羅老号の1回目の発射が失敗すると、航宇研は国会で契約書に関する非公開のブリーフィングに応じた。
この時も、ロシア語で作成された契約書の全文が翻訳されたわけではなく、一部を抜粋して議員らに配布するだけで終わった。
この場に居合わせたある議員は当時の状況について
「契約書の内容は何度読んでもさっぱり分からなかったし、詳しい説明もなかった」
と語る。
ロシアとの交渉や契約が行われていた時期に、航宇研の院長を務めていた複数の関係者も
「契約の細かい内容など、当時の状況について詳しく説明するのは難しい」
として具体的な言及を避けた。




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