2012年4月13日金曜日

松下政経塾はもういらない:日本を混迷に導いた壮大な「幻想」と小粒政治家たち

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JB Press 2012.04.09(月)  出井 康博
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34918

松下政経塾はもういらない
日本を混迷に導いた壮大な「幻想」と小粒政治家たち


 「政治家になるための塾」が大流行している。
 橋下徹・大阪市長による「維新政治塾」をはじめ、河村たかし・名古屋市長の「河村たかし政治塾」、大村秀章・愛知県知事の「東海大志塾」などが続々と設立されている。

 これらの塾には“元祖”と呼べる存在がある。
 松下電器(現パナソニック)創業者の松下幸之助が1979年に設立した「松下政経塾」である。

■民主党の国会議員28人が政経塾出身

 政経塾は今や政界きってのブランドだ。
 同塾出身の国会議員は、現職首相の野田佳彦(松下政経塾1期)を筆頭に38人にも上る。
 加えて県知事1人を含め10人の地方自治体首長、29人の地方議員も誕生している。

 とりわけ政権与党の民主党とは縁が深く、政経塾出身の国会議員も28人が同党に所属する。
 しかも彼らは揃って若い。
 54歳の野田の世代が最も上で、30~40代の現職議員も数多い。
 前原誠司(8期)元外相、玄葉光一郎(8期)外相、樽床伸二(3期)民主党幹事長代行、原口一博(4期)元総務相など、“将来の首相候補”と見られる人材も目白押しだ。

 筆者が政経塾について取材を始めたのは、今から13年前の99年のことだった。
 当時、塾出身の国会議員は15人で、世の関心も現在ほど高くなかった。

 取材のきっかけは、政経塾という不思議な存在に興味を抱いたからだ。
 「政治家養成機関」など、世界を見渡しても類を見ないのである。
 また、政治家を親に持つわけでもない、ごく平凡な家庭に生まれ育った若者たちが政経塾を経て続々と国会議員になっていることも、興味を持った大きな理由だ。

 そして今年2月には、取材の蓄積を『襤褸(らんる)の旗 松下政経塾の研究』(飛鳥新社)という書籍にまとめた。
 塾出身者たちが歩んだ人生を追いながら、政経塾の功罪について問うたルポルタージュである。

 一見、大成功を収めた政経塾だが、同塾出身の政治家に対する風当たりは強い。
 最近では「政経塾が日本を悪くしている」といった声まで聞かれるほどだ。
 なぜ、政経塾は嫌われるのか。その歴史を振り返りつつ考えてみたい。

■消滅寸前の政経塾を甦らせた「新党ブーム」

 政経塾がつくられた70年代末、日本の政界は自民党が万年与党、社会党が野党第一党という「55年体制」の真っ只中にあった。
 政権交代など起きる兆しはなく、政治家2世でもなければ若者が政治など目指せる状況でもなかった。

 そうした状況を、松下幸之助は根本から変えようと試みた。
 「松下政経塾」という名前が明治維新の志士を数多く輩出した「松下村塾」にちなんでいるように、現代に維新に匹敵する改革を巻き起こそうとしたのである。

 政経塾が誕生した頃、幸之助はすでに84歳。
 その後、自民党に代わる保守新党の結成まで密かに進めた。
 幸之助の体調が悪化したこともあって新党は結成されなかったが、そのバイタリティには恐れ入る。

 ただし、政経塾は当初から成功を収めたわけではない。
 創設から10年以上、政治家の輩出という実績はほとんど残せなかった。
 そして89年、幸之助が鬼籍に入ると、塾の存続すら危ぶまれた。

 その危機を救ったのが、93年の衆院選で日本新党を中心にして巻き起きる「新党ブーム」である。

 この選挙で、政経塾から一気に15人の国会議員が誕生する。
 野田や前原、玄葉、樽床といった現在の民主党幹部も揃って国政へと進出した。

 選挙後には日本新党で新党ブームを牽引した細川護熙を首班とする連立政権が誕生し、自民党は結党から初めて政権の座を失った。
 55年体制に終止符が打たれたのである。

 新党ブームにおいて、「松下政経塾」は「細川護熙」と並ぶ2大看板だった。
 両者の清新なイメージや若さに対し、有権者は大きな期待をかけたのだった。

 細川連立政権は期待を裏切り、短期間で終わったが、その後も塾出身の国会議員は右肩上がりに増え続けていく。
 野党勢力が新進党から民主党へと収斂していく過程で、新党ブームで注目を浴びた政経塾は候補者の供給源となったのだ。

 そして2009年、民主党が政権交代を果たすと、政経塾出身者たちは政界で中枢を占めることになる。

 民主党には自民党と比べてベテラン議員が少ない。
 民主党を牽引してきた鳩山由紀夫や菅直人、小沢一郎ら60代の下の世代は、新党ブームで国政へと進出した政経塾出身者たちが中心だ。
 鳩山ら3人が党代表や首相を退いた後、新党ブーム世代を代表する野田が総理の座を掴んだのも、ある意味、自然な流れではあった。

■政策を学ばず「人間」も学ばなかった政経塾出身者たち

 こうして振り返ると、新党ブームが政経塾にとってのターニングポイントになったことが分かる。
 新党ブームがなければ、これほど政経塾出身の政治家が増え、首相まで誕生することもなかったはずだ。
 また、政経塾自体が存続していたかどうかも怪しい。

 ただし、政経塾出身者は政治家としての実績に欠ける。
 新党ブーム以降も、国政で議席を守り続けてきた者は少なくない。
 だが、言い換えれば「それだけ」のことに過ぎないのだ。

 例えば、鳩山由紀夫は自らがスポンサーとなって民主党を結成した。
 菅直人は新党さきがけの時代、村山政権の厚生大臣として「薬害エイズ」問題追及で脚光を浴びた。
 小沢一郎に至っては、新党ブームの際に自民党を離党して以降、民主党で政権交代を果たすまで野党勢力の中心的存在であり続けた。

 しかし政経塾出身者の場合、そうしたセールスポイントが何もないのである。

 政経塾出身者に対する「政策通」というイメージも幻想に近い。
 政経塾という場所でみっちり政策の勉強を積んでいると思われがちだが、それは全くの誤解である。

 政経塾とは、政策を学ぶ場所ではない。4年(設立当初は5年)の在塾期間の間でも、カリキュラムが用意されるのは最初の1年半ほどだけで、以降は基本的には何をしようが自由なのだ。

 幸之助の言葉を借りれば、「自修自得」ということになる。
 カリキュラムにも剣道や茶道など政策とは無縁の授業が多い。
 つまり、政策の勉強よりも「人間力」を高めることに重点が置かれているのである。

 現在でこそ入塾者は30歳前後の社会人経験者が中心だが、設立当初からしばらくは大学や大学院を出たばかりの若者が大半だった。
 幸之助は、塾生に人生経験が乏しいことを危惧し、政策の勉強以前に政治家を目指す者としての基本的な素養を身につけさせようとしていた。

「人間を知れ」

 幸之助は塾生に対し、そう繰り返し語っていたという。
 その心配が、筆者には現実のものになってしまったように思えてならない。

■いつの間にか「選挙」や「政権奪取」が至上命題に

 これまで筆者は、100人近い政経塾関係者とインタビューを重ねてきた。
 そのうち約60人が塾出身者だ。野田をはじめとして国会議員や大臣になった者も多く含まれる。

 だが、塾出身の政治家で「人たらし」と呼べるような人物に出会った経験がほとんどない。
 ひとことで言えば、人間的な魅力を感じないのである。
 テレビ映りや街頭で演説をしている姿は良くても、実際に会うと幻滅してしまう
 。遠くから見るのと近寄って見るのでは違う、まるで富士山のような人物があまりに多いのだ。

 そこにも新党ブームが影響しているのかもしれない。
 新党ブーム以前の政経塾には「革命志向集団」としての矜持があった。
 首相としての指導力のなさが指摘される野田にしろ、かつては一部の塾出身者で新党結成に挑むような気概もあった。

 だが、新党ブームの強烈な成功体験によって、政経塾の雰囲気は一変してしまった。
 「選挙」や「政権奪取」が至上命題となっていくのである。

 国会議員となった者は政党内での出世を目指し、若い塾出身者たちは選挙の候補者にしてもらおうと先輩の議員とコネ作りに励む。
 彼らの欲望は、いつしか幸之助の野望を完全に飲み込んでしまった。
 政治家としてのビジョンもなければ、覚悟もない。
 それが国民に見抜かれてしまった結果、政経塾出身者への厳しい見方が広まることになった。

 政経塾が誕生して14年後、塾出身者は新党ブームというチャンスを掴んだ。
 それからさらに20太字年近くを経て、同塾出身の首相も誕生した。
 しかし今、国民の間には深い幻滅があるだけだ。

 そろそろ私たちは松下政経塾からも、そして幸之助が抱いたような「維新幻想」からも卒業する時にきている。
 幕末の志士ならまだしも、現代の政治家とは、塾で養成されるようなものではない。


 こういう論はいくらでも書ける。
 ほとんど意味を成さない評論用の評論である。
 血縁地盤の自民党の政治システムに対して、風を入れるためにこの塾は起こされた。
 長い歳月をかけてそこの卒業生がコツコツと動いていった結果、なんとか成功し、自民党を賞味期限切れ政党においやった。
 それだけでも価値がある。
 そしていま、維新の会などが生まれている。
 ここからはさらに政治が自民党システムから離れており、民主党システムからも離れている。
 時代は流れる。
 それぞれの時代にあって自民党だったり、民主党だったり、もしかすると維新の会だったりする。
 もしかしたら全く新しい何かが生まれるかもしれない。
 そこには必ず前の時代に「タネがまかれている」
 松下政経塾を現在から過去を糾弾するように見ても始まらない。
 評論家というのは、そういう論をもってネコのクビをとったように言う。
 それでメシを食っているのだからしかたがない。
 メシの種を召し上げてはいけない。
 中身は空っぽ。
 時代はコツコツと進んでいく。
 まいたタネが陽の目をみるまでには日月がいる。

 自民党とか、石原慎太郎とか亀井静香とか小沢グループとか「時代のアカ」がいま浮かび上がってマスコミを賑わしている。
 時代が流れれば、アカも消え去っていく。
 もし松下政経塾出身者がアカなら消えていくだろう。

 「日本を混迷に導いた壮大な「幻想」」というのもみっともない発想だ。
 混迷というのは、混迷でないというのが明確に定義されていてはじめて価値がある。
 「なら混迷でない日本とは」と問われると答えようがない。
 時代は常に混迷を引きづっている。
 そこから明日が生まれる。
 混迷なき時代は無価値な時代ともいえる。
 「お手てつないでオママゴト」が混迷なき時代なら、おそらくそんなものは再び来ることはあるまい。
 驚異的なスピードで動いているのが今、この時。
 混迷が混迷を引きずり、さらなる混迷がやってくる。
 明日が見えない、それが当たり前の未来。
 明日の姿を見ることができるような明日は明日ではない。
 明日の姿を想像できないから、未来に楽しみがある。
 でも、混迷というのは生きる人間に過重な精神的負担を強いる。
 未来・将来というのは未知であり、不安であり、つらいものだ。
 それに耐えられない、というオママゴト評論家は、過去を現在からみて糾弾していればいい。
 この人のように。




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